【高校・大学】自分がどうやってバイリンガルになれたか|アメリカ帰国子女

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おうち英語

こんにちは、バイリンガル育児奮闘中の chiyo です!

前回、アメリカの帰国子女である私の幼少期に続き中学時代について書きました。

幼少期の英語を全て忘れた状態で中1の時に二度目のアメリカへ。

最初はすごく大変だったものの、短期間でアメリカ生活に慣れて英語も話せるようになり、すごく楽しい中学生活を送りました。

3年経って親の仕事で帰国が決まり、アメリカのハイスクールに一年通ってから日本に帰国します。

今回はその後の日本でのICU高校での高校生活と、アメリカでの大学生活について書こうと思います。

chiyo
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この時点ではもうすでにバイリンガルになっていたので、バイリンガルになった方法というよりもICUHSとアメリカの大学生活についてになります。

 

ICUHSに興味のある方や、海外への留学を考えている方の参考になれば嬉しいです!

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最高に楽しかったICU高校

  • アメリカの学校は5月が年度末のため、ハイスクールで9年生を終わらせてから帰国した私は9月編入で日本の高校に入学
  • 編入試験は、アメリカでの成績表提出と、ライティング試験(エッセイ)、あと面接があった気がします(昔すぎてよく覚えてない!笑)
  • 私の実家が神奈川県の小田急線沿いだったので、帰国子女が多い事で有名、かつ通学範囲内の都内2校を受験。でも、「ここいいな!」と思っていた都立高は落ちて、特にあんまり印象無かったICUHS(国際基督教大学高等学校)は合格…笑 あの時都立高に受かってたらきっとあっちに行ってたので、今思うとホントによかったです!
  • 9月に授業が始まる前に、1学期にミスった分のまとめ授業をサマースクールみたいな感じで受けて、レベル分けのプレイスメントテストも受けました(英語や日本語系の授業はそれぞれ4つにレベル分けされていた)
  • 9月に実際に学校が始まると、みんなすぐに仲良くしてくれてソッコー学校大好きに!アメリカでの親友とはなんと同じクラス!!(しかも3年間ずっと、笑)
  • 色んな国の帰国子女が多く、基本ほとんどの生徒が私と同じように英語も日本語も喋れた。そんな私達の会話は日本語と英語を混ぜた、いわゆるルー語(笑)でも家では日本語だけ、アメリカの学校では英語だけだった私にとっては一番楽で、すんごく居心地が良い最高の環境だった
  • 一応制服はあったけど普段は何着てもOKで校則とかも特に無し。いろんな子がいたけどみんな基本仲が良くて、先生もちゃん付けと下の名前で呼びあうような、あまり日本ぽくない学校
  • 今思うと、あれだけ育ってきた国や環境が違う生徒がみんな仲良く楽しかったのって、きっと自分の個性を全く否定されずにそのまま受け入れてもらえる環境だったから。安心して好きなように好きな事をしながら学べた。すごく贅沢ですよね。私はトミーのブカブカTシャツを着て髪をピンク色に染めてアートを楽しんでました、笑 生徒の個性をホントに自由に表現させてくれたすごくいい学校だったなぁって今すごく思います。ベビーがいつかICUハイに行きたいって言ったら通わせてあげられるように頑張ろう…!汗
  • あれからもう20年経つけど、あの頃の友達は今も仲良し❤️最近はコロナで会えてないけど、普段は年に2回ぐらいかなり大人数で集まる!

アメリカの大学受験

  • ICUハイの生徒で帰国子女の場合、大学はそのままICUに進学するか上智大学(ソフィア)に行くのが王道だった。けど、私はやっぱりアメリカに帰りたい気持ちが強くて、日本での進学は考えなかった
  • 当時はインターネットは普及し始めてたけどネットでアプリケーションフォーム(入学願書)を提出する事はできなくて、アプリケーションフォームを郵便で送ってもらうようネットで申し込むのが基本(今はネットで全部済ませられるようです!)
  • アメリカの大学は日本のように試験一発で合否が決まるとかではなく、高校の成績や先生からのレコメンデーションレター(学校によるが大体先生二人からの推薦状を提出)、あと extracurricular activities(課外活動)や、もちろんエッセイやSATスコアなども総合的に評価されて合否が決まる 
  • 私の場合アート系に進みたかったので、ポートフォリオも提出する必要があった。学校での作品だけでは数が足りなかったので、小さな美術教室に通って作品数を増やし、提出する用のスライドなども作ってもらった
  • 入学願書と必要書類を全部揃えて、デッドラインまでにちゃんと届くようにEMSで各大学に送った時の緊張は今でも覚えてる!!!とりあえず良さそうな学校にたくさんアプライしたから、全部で8校ぐらいだったかな?
  • アメリカの大学には early decision / early action という制度があって、早めに願書を提出して合否も早めに分かるというものがある。Early decision の場合受かったら必ずそこに行かなきゃいけないけど、early action の場合は受かっても他の学校に決めてもいい。私はとりあえずアメリカに戻れるってことを早く確信したかったから(笑)early action で一校アプライして無事合格。結局そこには行かなかったけど、他の学校の返事が来るまで気持ちは楽だったからやってよかった!

アメリカに戻る!大学生活

  • 最終的に入学を決めた学校はNY州のSyracuse(シラキュース)大学。決めた理由はスカラーシップ(奨学金)が貰えたから!もちろん全額とかではないけど、それを貰えた方が他の学校よりも若干安くなったので。アメリカの大学って、アメリカ人の生徒だと奨学金をもらえる制度が色々あるんですけど、海外から来る生徒には一般的に金銭的援助無いんです。「海外に来て勉強するんだからそれくらいのお金はあるんでしょ?」みたいな、汗 
  • 日本から International student としての入学だったので、授業が始まる1-2週間くらい前からキャンパスに行ってオリエンテーションに参加。本格的に生徒がドッと増える前に友達を作ったり身の回りの準備が出来てよかった。ちなみにSyracuseへはこの時初めて行った!
  • 一年生はみんな寮生活が義務付けられていて、この時初めてのルームメイトとの共同生活。日本にいた時からメールで少しやりとりをしていたけど、会って一緒に暮らし始めたらすごく仲良くなって、二年生の時も一緒に生活してずっと親友
  • 日本人の生徒も結構いて、仲の良い日本人の友達も二人出来た。けど、その他の日本人グループの人とはほとんど接点無く…笑 
  • 授業、友達、テレビとか生活の全部が英語漬けの毎日。もちろん彼氏とかもアメリカ人で英語のみの会話。やっぱりICUHSで常に英語で喋ってたからか英語で困ったこととかは一度も無かったけど、全く日本語を話さない毎日。たまに親が日本から電話かけてくると日本語で喋るのが面倒くさく感じちゃったりした(ごめんね、ママ!)
  • 日本の大学は入学するのが大変でアメリカの大学は卒業するのが大変って言うけど、確かに大変だった…!もちろん卒業危なかったワケではないけど、常に課題が山積みで、いい成績取ろうと頑張ってたからすんごく忙しかった。それと同時にガチで遊んでもいたから、なおさら 笑 でもあの時いっぱい頑張っていっぱい遊んで毎日楽しかった!いい思い出です

まとめ

私の幼少期から大学までのストーリー、いかがでしたか?

今回の高校が始まった時点ではすでにバイリンガルになっていたので、バイリンガルになる方法については全然参考にならなかったかもです、すみません…

でも、多分ICUHSに行って毎日英語で話してなかったら、きっとまた英語を忘れていただろうし、大学でアメリカに戻ることも出来なかったかもしれません。そういう意味では、バイリンガルのスキルをキープする方法として参考にしていただければ嬉しいです。

と言っても、アメリカの大学に行った後日本に帰国したら、やっぱり日本語がだいぶあやしくなったって友達にも親にも言われました、汗

今も日本に戻って長いので、意識的に英語を使うように生活しないと、またどんどん英語を忘れちゃいそうです。

バイリンガルって、一度なれたからって自動的にずっと続くものではなくて、環境によってどんどん変わってしまう常に自分でキープ出来るように意識して試行錯誤する必要がある、って実感しています。

私が英語をキープするためにしている事についてはまた今度書こうと思います。

地道に頑張りましょ〜!最後まで読んでいただきありがとうございます❤️それでは。

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